~Erwachen 第弐話 『崩壊』~
「ナコちゃん大丈夫かなぁ……。」
湖で顔を洗っていた碧は、手を止めてふと呟いた。
そのまま小魚が泳ぐ水面に視線を落とす。
ナコは幻覚を見てからというもの、
一人でテントに籠る事が多くなっていた。
パーティーの面々が話を振っても、生返事を返すだけ。
普段が朗らかなナコだけに、碧は心配だった。
『それはお前の招いた結果だ――あれほど忠告してやったのに。』
ふいに湖面に映った自分の顔が言葉を発する。
いや、碧の頭の中に直接語りかけると言うべきか。
『さぁ躰を貸してもらおう。それは元々俺の器だしな――』
その刹那――
碧は世界が傾くほどの眩暈をおぼえた。
奥歯を噛みしめて耐えようと試みるも、脳を圧縮する力がそれを許さない。
そして。
暫く項垂れていた碧の躰が、ゆらりと立ち上がる。
「無駄な事をする。いずれは『俺』と融合する定めだというのに。」
眼鏡をかけ直した『碧』は、うっすら笑みを浮かべて呟いた。
――どうか、ナコちゃん気を付けて――
★★
ナコは自分のテントの中で膝をかかえて座っていた。
先日見た、あのデジャヴが目に焼き付いて離れない。
――極彩色の液体に入った、蠢くもの。
あれは一体何だと言うのか。そして、何故それが自分に見えたのか。
以後何度も水の魚の瓶を見返してみた。だが、そこにはただ透明な魚が泳ぐだけ。
その場では幻覚だと誤魔化したが、これほど鮮明な幻など見るものなのだろうか。
ナコがいつものように思考を巡らせていた、その時。
「ナコちゃん、ちょっと入っていい?」
碧の声だ。ナコは、鬱陶しいと思いながらも生返事を返した。
碧が申し訳なさそうに入ってくる。
こんな時ナコは、迷惑だと思うなら入ってこなければいいのにと心の中でぼやいていた。
「ナコちゃんこの頃元気ないよ。大丈夫?」
碧はナコの隣に座る。気遣いだと分かっていても、今はそっとして欲しかった。
「……何でもないわ。何か用?」
自然とぶっきらぼうに答える。碧は困ったように苦笑した。
「顔色が悪いから、調子が悪いのかと思って。熱とかない?」
そう言って手のひらを額に当ててくる。
今更気恥ずかしいので、あわてて手を払いのけようとした。だが。
碧の手がナコの額に触れた瞬間――ナコの視界が湾曲した。
そのまま吸い寄せられるように、意識も遠のいていく。
支えるものを失った躰は、その場に崩れ倒れた。
この時ナコが最後に見たものは――
満足げに微笑む、碧の顔だった。
★★★
目をあけると、そこは黴臭い石畳みの上だった。
躰のあちこちが酷く痛む。動こうとして手に力を入れたが、痺れが走るだけだ。
どうやら自分は、拘束されているらしい。
汚物をぶちまけたような饐えた臭いに顔を歪めながらも、顔を上げ周りを確認する。
何もない石壁の小さな部屋。
いや部屋というのもおこがましい、
真正面に見える鉄格子からして、ここは牢屋か何かだろう。
――なぜ私は、こんな所にいるのだろう?
当然の疑問がナコの頭に浮かぶ。自分はさっきまで、テントに居たはずなのに。
その時、何人かの足音がこちらに近づいてきた。
牢を開けて入ってきたのは、
ファンタジーゲームに出てくるモンスターそのものだった。
醜い顔の頭の悪そうな奴、ブタの顔をした人間モドキ、カエルの頭の筋肉ダルマなど。
正直言って、お世辞にも親和的になれる顔ぶれではない。
先頭をきって、醜い顔の男が口を開いた。
「あの『紅の使者』もこうなっちゃあ見る影もねぇなぁ。
何万人と殺してきた戦屋の名が泣くぜ。いや、このご時世じゃなかったら単なる殺し屋か?」
――紅の使者?
聞いた事のない言葉に、ナコは眉を顰めた。
「ああん?流石にこの扱いは不服ってか?
しょうがねぇじゃねぇか、アンタ捕まったんだから。
異形の力で何百もの戦場を血で染めた殺人鬼もこうなりゃただの小娘だ。」
身に覚えのない話が男の口から垂れ流される。
ナコは思わずそのへちゃげた顔を蹴り上げてやろうと思ったが、
鉛のように重い足は一向に動かない。
「まぁ普通はその場で八つ裂きにしても俺らからすれば飽き足りないんだけどよ、
上のヤツらがアンタの力にいたく興味を持っててな。
……正直シリもムネもない子供相手じゃ俺らも気乗りしねぇが。」
――尻も胸もないですって!?
今まで浴びせられた罵詈雑言よりも、ナコにとってこれが一番腹が立った。
自分のプロポーションはちょっとした自慢である。貶される覚えはない。
『どこが胸がないのよ!ちゃんと……』
ナコは自分の躰を今一度確認すべく下を見た。視界に飛び込んできたのは――
見慣れない紅い服。壊された胸当て。長い珊瑚色の三つ編み。
……そして、文字通り平たい胸。
そこで初めてナコは気づいた。
この躰は、『ナコ』ではない別人であることに。
「じゃあそろそろ本題に入ろうか。
アンタにはこれから、新しい生物兵器を生んでもらう。」
男は醜い顔をさらに歪め、卑下た笑いを漏らした。
そのおぞましい姿に、ナコの背すじに悪寒が走る。
「……何をさせる、気なの……?」
かろうじて、それだけ声を絞り出すことができた。
男たちはニタニタと厭らしい嗤いを浮かべる。
「文字通り『産んで』もらうんだよ。ここにいる全員と交配してな。」
一瞬、何を言われているのか分らなかった。
言われた言葉の一つ一つを噛み砕く。交配、それはすなわち――
女にとって、死よりももっと悲惨な屈辱を与えられるということ。
「いやああああああああああああああああああああああ!!」
ナコの断末魔は、石畳の埃の渦に吸い込まれていった。
★★
そこから先の意識ははっきりしていない。正気では耐えられなかったためだ。
暴行に次ぐ暴行、暴力。暴行。暴力。
休みが与えられると思ったら、決まって文字通り腹を探られた。
始めは舌を噛み切ろうと思ったが、猿轡を噛まされてそれも無理だった。
殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。
ナコの頭の中には憎悪と殺意しかなかった。
そして何も出来ない自分自身も殺してやりたいと思った。
そんなある時。
一人の人間らしき褐色の肌の男がやってきた。額の眼球が妙に印象的だった。
男は極彩色の液体が入った瓶を持っていた。
そして、不思議な力で猿轡が外される。男は言った。
「今日は報告をしようと思ってね。君のおかげでいいサンプルができそうだ。」
淡々と告げる男に、ナコは堪りに堪っていた殺意をぶつける。
「殺してやる!殺してやる!殺してやる!!全て壊してやる!!」
「いいのかね?これは全て、お前から生まれたものなのに。」
――私から、生まれたもの?
ナコは男の持つ瓶を凝視した。液体の中では小さな何かが小刻みに蠢いている。
「教えてやろう。これは胎児だ。これらを滅ぼすと言うのなら――」
ナコは息を飲んだ。無表情だった男が、口を歪ませ笑みを浮かべたためだ。
「お前が壊す全ては、お前の――子供だ。」
子供。
経緯はどうあれ、自分の腹に宿った命を潰せる親など居るだろうか?
――答えは、否。
殺すことも出来ない。死ぬこともできない。今更死んでも何も変わらない。
「ああああああああああああああああああああああああああ!!」
大きな矛盾を抱えた少女の心は、その軋轢に耐えかねて――崩壊した。
★★★
「ナコちゃん、大丈夫?」
目を明けると、そこは自分のテントの天井だった。寝かされているらしい。
声をした方に向くと、見なれた少年が優しげな微笑を浮かべて手を差し伸べてくる。
――男の、手。自分を蹂躙したもののナカマ。
「来ないでっ!!」
ナコは起き上がり、少年の手を力一杯はねつけた。
「お前らなんか殺してやる!壊してやる!死んでやる!私もすべて滅ぼしてやる!!」
正常な思考が回らない。
ナコはひとしきり喚いた後、テントを飛び出して行った。
To be continued...
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【予告】
過去の残骸は容赦なく少女を斬り刻む。
壊れてしまった魂は闇に沈んでゆく。
沈んだ魂の欠片は、光を映し何を見出すのか。
第参話 『仮衣』は第45回更新回の予定です。